その企画、対談で大丈夫? 海外ではなぜ「対談」「鼎談」が少ないのか

雑誌でもウェブでも、昔からよくある手法に対談があります(3人の場合は鼎談=ていだん)。なぜ多いのかといえば、原稿が比較的「つくりやすい」から、という事情が実はあったりします。人選が的確で、司会進行がうまく話を引き出すことができれば、もうできたようなもの。後は、しゃべくりの内容をテキストに起こし、その場の写真を添えればカタチになります。

ただし、それが面白い記事になるかといえば、それはまた別です。
まず基本的に話し言葉ですから、読みやすいことは読みやすいのですが、冗長になりやすい側面があります。
それに、なんというか、パーティでの歓談で自分以外の人たちが盛り上がっているのをそばで眺めているような、しっくりこない感じ。ときどき、ありませんか? もちろん企画内容や登場人物によるのですが、そんな印象があるのです。

対談は個人主義になじまない?

ところで対談とか鼎談という手法、海外ではあまり使わないのでは、と私は思っています。「海外ではあまり使わない」といい切れるほど、海外のメディアに目を通しているわけではないので、あくまで印象ですが、それほど的外れではないのではと思います。

一時期、アメリカの『Sports Illustrated』(硬派のスポーツ専門週刊誌。文藝春秋『Number』が創刊時に提携)が毎号、職場にあるという環境にありまして、けっこう目を通していたんです。で、あるとき、バッティング理論について、大御所と、その当時の強打者2人による鼎談という企画があり、気がついたんです。「この雑誌で、対談・鼎談の企画を初めて見た」と。

その雑誌で、その後も、対談・鼎談について見た記憶がないし、それ以降、ときおり海外の雑誌を見る機会があれば意識の片隅で注意していましたが、対談・鼎談の企画が非常に少なかった印象があるのです。

なぜ対談・鼎談が少ないのか。海外での編集経験などない立場からの推論ですが、おそらく向こうの文化では対談・鼎談が成り立ちにくいのではないかと思うのです。

対談・鼎談は、なんらかの企画のもとに行われます。企画とは”企ての計画”ですから(すみません、思い付きです)仮定としての結論なり着地点があるわけです。参加者はノーテーマで雑談からスタートするわけもなく、始めに「企画意図」としてその計画の説明を受けます。そして全員が着地点を意識しながら話を進めていく。

ところが欧米なら、この暗黙の了解みたいなものにあまり関知しないのではないかと思うのです。実際、件の『Sports Illustrated』の鼎談も、バッティング理論に関する議論がすすむなか、意見の一致を見ず、最後のほうで司会の編集者が「結局、どちらも腰を使うことが重要、という点では同じことを言っているのでは?」という着地点を模索するような締めの言葉で終った、と記憶しています。

日本人だと、たとえ意見がちがったとしても、その相違点を突き詰めていくことはあまりなく、意見が合う部分を見つけ出して「たしかにその点は納得です。私の場合は‥‥」というように話を寄せてくることが多い。そうすることが礼儀だみたいな空気があったりするわけです。

対談成功の秘訣がここに

そう、ここのところが対談成功のポイントです。参加者が「あまり相互に意見が合いすぎては面白くない」という意識を持ち、ある程度「議論を戦わせる」くらいの演出センスがあることが成功の秘訣といえるでしょう。司会もそこのところは理解したうえで進行していく。その場に応じて焚きつけたり、仲裁したりしていく。

とにかく人選です。キャスティング。この人とあの人を合わせれば、こんなふうに展開するだろう、というようなイメージを持てないと。

そのイメージがはっきりしないようなら、たとえば「別々にインタビューして記事を構成する」というやり方を検討したりすればいい、と思います。

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